地下鉄で移動中、ふと手帳を開いてメモを取りたくなる瞬間がある。
スマホで打てばいい話だが、やはり思考の断片を捕まえるには、物理的な「手書き」が一番だ。
だが、ここで問題になるのが「音」だ。
地下鉄の車内は、走行音(ゴーッという重低音)で満たされている。そんな中、ボールペンのノック音(カチッという高周波)は、音量が小さくても妙に耳に刺さる。
いわゆるカクテルパーティー効果の一種だろうか。
自分が気になるのだから、周囲も気になっているはずだ。そう思うと、混雑した車内でペンをカチカチするのは躊躇われる。
「書きたい。でも、音で誰かのノイズになりたくない」
そんな静音へのニーズに応えるのは、実は最新の機能性ボールペンではなく、引き出しの奥に眠っていた「スイス製の金属塊」だった。
「回転式」のエレガンスと、「ノック式」の機動力
音を消すだけなら、ペン先を回して出す「回転式(ツイスト式)」を使えばいい。
構造上バネを弾かないので、ほぼ無音だ。高級ブランドのペンの大半はこれだし、会議室でエレガントに振る舞うなら正解だろう。
だが、回転式には現場で致命的な弱点がある。
「片手で完結しない」ことだ。
吊革に掴まっている時。片手でスマホを持ちながらメモを取りたい時。
回転式だと、一度手を空けて、両手で「クルッ」と回さなければならない。このワンアクションが、思考の速度を鈍らせる。
「あ、これメモろう」と思った瞬間に、親指一本で起動できる「ノック式の機動力」は、ビジネスの現場では譲れない正義なのだ。
灯台下暗し。「ブリュットロゼ」の再発見

機動力(ノック式)と静音性(マナー)。
この矛盾する二つを両立するペンを探していたら、答えは自宅の引き出しにあった。
カランダッシュ(Caran d’Ache) 849 ブリュットロゼ。
実はこれ、数年前に前職の上司から餞別で頂いたものだった。
当時は「お洒落な色のペンだな」程度にしか思わず、書き味が好みでなかったこともあり、ずっと引き出しの肥やしにしていた。
(当時の上司、本当に申し訳ない)
久しぶりに引っ張り出してみたが、改めて見るとこの「ブリュットロゼ」、只者ではない。
スイス製がもたらす「無音ノック」の衝撃

何気なくノックしてみたとき、ちょっとした衝撃を受けた。
「……(無音)」
いや、厳密には音はしている。金属部品が擦れ合う「シュッ」という吐息のような音。
だが、一般的なペンのような「カチッ!」という、バネがプラスチックを叩く反響音が皆無なのだ。
静音ボールペンの傑作、ぺんてるの『Calme』も愛用しているが、あれは樹脂やゴムで「音を吸収」している静けさだ。ぺんてるの技術も素晴らしいのは言うまでもないが、対して849の静けさは「部品精度が高すぎて音が出ない」という感覚に近い。
まるで油圧シリンダーを押し込むような、ヌルッとした感触。
ノックボタンの遊び(ガタつき)が極限まで排除されているため、金属の塊がスライドする音しかしない。
これなら、静まり返った会議室でも、地下鉄の中でも、誰のノイズにもならずに「起動」できる。
インダストリアルな色気と、六角形のグリップ

デザインも秀逸だ。
「ロゼ」という名前だが、可愛らしいピンクではない。ブロンズに近い、渋いピンクゴールド。
特筆すべきは表面のテクスチャだ。
通常の849はツルツルだが、このモデルはサンドブラスト加工のようにザラザラしている。
最近の高級車のマット塗装のような質感で、光を鈍く吸い込む。このザラつきが指への摩擦を生み、乾燥した手でも滑らない。
そして、カランダッシュのアイコンである「鉛筆と同じ六角軸」。
丸軸よりも指の接地面が多く、余計な力を入れずにホールドできる。
見た目の美しさと機能性が同居する。さすがはスイスメイドのインダストリアルデザインだ。
賛否両論の「ゴリアット芯」をどう愛でるか

ではなぜ、今まで放置していたのか。
理由は「ゴリアット芯(Goliath)」特有の書き味にある。
ジェットストリームのような「低粘度インク」に慣れた手には、昔ながらのねっとりとした油性インクは「重い」と感じられたのだ。
書き出しに少し筆圧がいるし、ペン先を走らせるのに抵抗感がある。
だが、スペックを見直して驚いた。
インクタンクが巨大で、筆記距離はなんと8,000m(8km)。
普通の100円ボールペンが1km程度と言われる中、そのスタミナは異常だ。実際、数年放置してもインクのかすれはゼロだった。
重さを「思考のブレーキ」にする
最近は、この「重さ」も悪くないと思い始めている。
脳内のスピードで書きなぐるアイデア出しには向かない。だが、契約書へのサインや、商談中のメモなど、一文字ずつ丁寧に情報を刻みたい場面。
そういう時は、このねっとりとした抵抗感が、適度な「思考のブレーキ」になり、文字が暴れるのを防いでくれる。
コントロール可能な重さ。そう解釈すれば、この芯も愛せる気がしてきた。
結論:気まぐれなサブ機の定位置
現在、この849は「サブ手帳の相棒」というポジションに落ち着いている。
全長128mmというショートサイズが、小型の手帳に驚くほどしっくり収まるのだ。
毎日使うわけではない。基本はジェットストリームの日もある。
だが、「今日は少し落ち着いて仕事をしたい」という日や、大事な商談がある日。
胸ポケットから、このザラついた金属のペンを「ヌルッ」と静かに取り出す。
かつての上司は、僕のバタバタした働き方を見て、「機動力(ノック式)」と「落ち着き(ゴリアット芯)」を兼ね備えたこのペンを選んでくれたのかもしれない。
今度会う機会があれば、数年越しの感謝を伝えつつ、静かにこのペンを見せてみようと思う。

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